‘西洋式’評価法に物申す。

しきりと‘積極的発言力が云々’等と語られるようになった今日、大学における成績評価方法も授業中の発言回数に基づくものが多くなってきている。しかし、そのような状況の変化に私は一言物申したいと思う。
大学の講義を想定した場合、授業内容に対して発言するということは、その内容に対して何か不十分なものが感じられたか、もしくはそれに対して対極の意見を持っていたかのいずれかによるものであろう。逆に言えば、講義内容に関して充分な満足感が得られてしまい、その内容についても一通り納得出来てしまう私のような人間にとって、講義中に発言の機会が生ずることは全く無いのである。つまり、真面目に授業を受けていても成績にはつながらないということになる。
もし仮にこのような状況を覆す方法が存在するとなれば、相手の論理の歪(ひず)みを徹底的に追求し、重箱の隅を突付くかの如く質問することしか考えられない。このような行為は相手の揚げ足を取っているかのようで、私の望んでいるものではない。結局の所、相手に完璧な論理を展開されてしまっては、こちらも聞く側に徹するしか無いのである。本当に必要性の生じた場面であればまだしも、どうして目的の無い発言を要求されねばならないのだろうか? 私にはその辺が全く理解出来ない。

そもそも、このようなことを感じ始めた背景には、昨今の日本社会に対する不満感が挙げられる。党首討論をやらせてもろくに相手を論破出来ないような大人達を見ていると、物事をプラスかマイナス、黒か白、善か悪にしか分類出来ない『積極的な議論』というものに、どうしても意義を見出せないのである。どんな場面においても議論こそ解決の糸口になるとは限らないし、そもそも目的を持たない発言は無意味である。首相に対して‘あなたは謝罪すべきなんですよ’等と幼稚園児レベルの口喧嘩を繰り返す暇があったら、年金法改正案の問題点を洗いざらい提示し、その問題点について‘訴えかける’ことは可能であったと思う。
…そう、私が追求したいのはまさに‘訴えかける’という精神である。魂の込められた発言は、聴く側の心を強く惹き付ける力を持つ。決して‘訴える’のではない、‘訴えかける’ことが大切なのである。ちょっとした言葉にせよ何にせよ、こういった‘心の在り処’を失った瞬間、自分が日本人であることの意義をも失ってしまうのではないかと思う。何でも西洋化すればいいというものではない。相手に勝つことでしか自分の存在意義を感じられないようでは、最早死んだも同然である。大学における成績評価も、もう少し心の通ったものを期待したい。

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