もう少し‘大学を受験するということ’について万人が考え直すべきである。

この辺の問題は、私が昨年度まで勤務していた某大手予備校の契約を今年度更新しなかった事にも繋がってくるのだが…皆さん大学受験だけが人生の全てだと思っていませんか? 大学にさえ受かってしまえばそれで安心なんですか?
今や大学院卒業生でさえ満足に就職出来ない御時世。大学に行ってもろくな教育が受けられる訳じゃない。それでも大人達は「大学位は出ておかないと」等と軽々しく口にする。結果キャンパスには無気力大学生が溢れ、研究に専念出来る環境からは益々遠ざかりつつある。
勉強する気の無い奴は大学へ来るな。そして、無駄になる事を承知の上で払い込んだ授業料を返還しろって最早ヤクザですなだって『不返還特約』交わしてるんでしょ?? それじゃ契約書の意味なんて全然無いじゃんか、ねぇ…。

http://www.asahi.com/national/update/0911/003.html?ref=rss

宴会部長からのメール。

帰宅して少々落ち着いてから携帯電話に目をやると、研究室の宴会部長からメールが。内容は明後日出発の合宿に関するもの。私は大学まで自転車で通っている身なので、当然の如く大学の最寄り駅集合だと高を括っていたのだが…。

「午前9時半にJR日野駅に集合してください。」
…ハァ?!
糞屍呪癌姦淫怨痔妾蔑?!!
(c/ザイーガ

このような結果となってしまったのも、日野在住の教授が「東京まで出たくない」と駄々をこねたことに端を発する。その所為で参加者の実に半数以上が日野集合となってしまったというのだからどうしようもない。学生そっちのけで自分の好き勝手にやる教授というのは概して嫌われ者となるが、学生巻き添えで好き勝手にやる教授は最早論外。もう少し状況をわきまえて下さい。

大学院生向け授業における課題(…のダメさ加減ときたらもうどうしようもないんですよという話)。

早いもので7月も下半期に突入。大学生は目下試験シーズン、中高生は試験休み、小学生はもうじき終業式という時期に当たるが、それでは大学院生はと言うと目下期末レポートの作成に追われているのであります。
…かく言う私自身もそいつに追われている訳なのだが、いざ書き始めてもイマイチ巧くまとまらない。それも自分に文才が無いとかそういう次元の話では無く、出題された課題自体が全然面白くないのである。この辺は授業内容の充実度合いにも大きく依存してくる所であるが、私の中での格付けはこんな感じ↓

1. 授業内容が面白く、期末課題も挑戦する価値が十分に感じられる。
2. 授業内容は面白かったのだが、期末課題がぱっとしない。
3. 授業内容がそもそもダメ、期末課題はゴミ以下。

…んでもって、今回6通仕上げねばならないレポートのうち2と3に該当するものが合計4通もある訳です。大学生の体たらくが曝け出されるようになって久しいが、当の大学生としてはもうちょっとマトモに授業が出来、なおかつ学生に対しても興味深い課題を提示出来るような教授を揃えて欲しいものである。

大学生であることが嫌になった。

1限授業、2限発表。
2限のダメっぷりに関しては先週も述べた通りであるが、今日はそれに起因するフラストレーションがMaxに達していた。折角構成された班が全く機能しておらず、実際に発表準備に関わった学生は10人中実に数人。最終的には水面下で作業が進行することとなってしまい、私自身もどういった状況で準備が行われているのか全く把握出来ない状態となっていた。一応昨晩の段階で発表用スライドのサンプルがメールにて回覧されていたので返信は行ったのだが、結局私が関わった作業もそれが最初で最後。他のメンバーからは何の反応も無かったらしく、しまいには発表の場にすら姿を見せなかった。肝心の発表も準備不足が崇り、最終的には‘時間切れ’という形で強引に幕となってしまった。
事前に公開されたシラバスの理想とは余りに掛け離れた学生の意識に、私は怒りを通り越した落胆しか感じ得なかった。大学生とはもう少しマトモなものであると信じ込んでいたのだが、その認識自体が誤りだったのだろうか?

3限はゼミテスト。しかし教授の単なる思い付きであることが明らかだった為、事前学習等する気にもなれない。そもそも、上級生の殆どが理解出来ていない理論について、この期に及んでテストすることに何の意味があろうか? そんなくだらぬイヴェントに時間を取られる位ならば、自分自身の研究活動を進めていった方がよほど有意義である。
んで、4限はいつになく人数の多い教室で授業。これだけの人数が集まってしまった理由というのも【今日が授業最終日→課題が出題されるから出席しておこう】等という、学業を完全にナメ切ったものであった。

そんなこんなでとことん機嫌が悪い中、今夜も研究室に残ってソースコードの最適化。気分は沈んでいれど、プログラムは確実に高速化していくのが唯一の救い。とりあえず、今は余計な人間との係わり合いを持ちたくない。

激痛。

昼から研究室にて作業。昨日の班ミーティングを終えて浮上したアルゴリズムの改善策を早速試してみた結果、実行速度が2割以上改善されることが判明。4限は授業だったのだが、最終回にも関わらず教授の話が支離滅裂。まぁ大学院の授業なんてこんなもんだ。
夜は実習TA。実習教室が寒かった所為で、腹痛を引き起こしてしまうことに。実習時間は何とか乗り切ったのだが、その後研究室に戻ってから課題の仕上がっていない学生の補習を行うことに。マジで死ぬ。つーか、相手に全然やる気が感じられない中、こんな補習を行うこと自体が無駄である。結局22:30までプログラムと格闘し続けたのだが、こんな生活を続けていたら確実に寿命がすり減っていく。

…もう少し真剣に大学生活を送ってみませんか?

今日も今日とて1限から授業。しかし登校前にダンスレッスンを行なった所為で遅刻寸前。アフォ丸出しである。
2限はグループ発表。私の所属する班は来週発表なので、今日は他の班の発表を評価する側となる。しかし、教室内を見渡しても出席率激悪。発表担当班ですら全員揃っていないという体たらくである。そして授業終了後に発表の打ち合わせを行なおうとしても、集まったのは実に5人(※10人中)。お互い面識のあるメンツならまだしも、この授業の為だけに丁稚上げられた班に過ぎない為、お互いの意思疎通が全くなっていない。今日集まったメンバーはまだマシな連中だったのだが、モチベーションが下がりまくっている関係で‘発表ばっくれ’なる意見まで飛び出す始末。特に今日参加していなかった面々については、もう少し集団行動における責任や、授業を履修することの意味について考え直して欲しいものだ。

午後は研究室にて授業。しかしここでも不正欠席者現る。表向きの欠席理由は‘体調不良’ということなのだが、実際は‘FFXI中毒’ということらしい。…こんな奴と同じ研究室に居ることが恥ずかしくてならないのですが。つーか、模範となるべき上級生も研究室でゲームばっかやってるんで、仕方無いんでしょうかね?
4限は休講だったのでレポートの打ち出し。そして夜は隣の席の上級生が扱っているプログラムの手直し。私自身Visual C++でのプログラミング経験は2年少々に過ぎないが、そんな私の目からしても明らかに非効率&難解なソースコードに唖然。次元が固定されたベクトルの座標値を敢えて動的配列で組んでいたり、その配列自体が意味も無く3次元配列になっていたり、わざわざ1次元ずつnewしていたりと全てが意味不明。もし私だったら、こんなプログラムを使って研究をする気には全くなれない。意味不明なソースは徹底的に書き直すべし。

外国人からの電話。

いつも通りあーでもないこーでもない騒いでいたら、ふと研究室の電話が鳴った。丁度一番近くに居たのが自分だったので取り次いだのだが…何と電話の主は外国人。無理。応対なんて出来るわけが無い。つーか、向こうの英語も何だか微妙だったし。
ということで、教授と話したいという相手の意向に従い速攻で受話器パス。英語勉強せんとあかんなー…。

『splitLine()』キター!!!!!

つーか、貴様がこっそり作っているソフトウェアの関数名を出されても誰も付いて来れんて。
…気を取り直して。

splitLine()関数とは、現在私が独自に開発しているCADソフトウェアにおいて、中核を担う関数のひとつである。今朝の段階で依然プログラム上に実装されていなかった機能は2種類存在し、その一方がこれだったという訳だ。早い話が‘画面上に存在する選択された線分を、データ構造レベルでバラバラにぶった切る’というだけの機能なのだが、線分の交差判定や交点算出が(諸々の事情により)恐ろしく面倒で、かつ大量のデータを一気に処理せねばならない都合上、凄まじい量のポインタの繋ぎ換えミスやその他のバグが蓄積していた。
今日はひたすらそれらを退治した結果、ようやく正常に動作するレベルまで至ったという訳。少なくとも、重複点の削除やリスト操作に関しては完璧に実装されている(気がする)。

残された機能は‘選択された線分のうち結合可能なものをくっつける’という、分割処理に比べれば圧倒的に楽な処理だけである(※結合処理は要素数がどんどん減っていく反面、分割処理はひたすら要素数が増え続けるので圧倒的に面倒くさい)。これが完成すれば、今年度目標としている研究成果の約3割程度が達成されたことになる(予定)。

独りぼっちで研究室。

つーか、6月6日雨ザーザー降ってる中、大学に来よう等と考える物好きはそうそう居ません。
私を除けば。

と言う訳で、昼食を済ませてからレインコート着て目指すは大学。今日はひたすらソースコードの最適化を行っていた。メイン部分のソースが1/3程度に圧縮されてしまったことには驚き。しかし、最適化し過ぎた所為で判定処理の内容が自分でもよく解らなくなってしまった。ダメじゃん…。

‘西洋式’評価法に物申す。

しきりと‘積極的発言力が云々’等と語られるようになった今日、大学における成績評価方法も授業中の発言回数に基づくものが多くなってきている。しかし、そのような状況の変化に私は一言物申したいと思う。
大学の講義を想定した場合、授業内容に対して発言するということは、その内容に対して何か不十分なものが感じられたか、もしくはそれに対して対極の意見を持っていたかのいずれかによるものであろう。逆に言えば、講義内容に関して充分な満足感が得られてしまい、その内容についても一通り納得出来てしまう私のような人間にとって、講義中に発言の機会が生ずることは全く無いのである。つまり、真面目に授業を受けていても成績にはつながらないということになる。
もし仮にこのような状況を覆す方法が存在するとなれば、相手の論理の歪(ひず)みを徹底的に追求し、重箱の隅を突付くかの如く質問することしか考えられない。このような行為は相手の揚げ足を取っているかのようで、私の望んでいるものではない。結局の所、相手に完璧な論理を展開されてしまっては、こちらも聞く側に徹するしか無いのである。本当に必要性の生じた場面であればまだしも、どうして目的の無い発言を要求されねばならないのだろうか? 私にはその辺が全く理解出来ない。

そもそも、このようなことを感じ始めた背景には、昨今の日本社会に対する不満感が挙げられる。党首討論をやらせてもろくに相手を論破出来ないような大人達を見ていると、物事をプラスかマイナス、黒か白、善か悪にしか分類出来ない『積極的な議論』というものに、どうしても意義を見出せないのである。どんな場面においても議論こそ解決の糸口になるとは限らないし、そもそも目的を持たない発言は無意味である。首相に対して‘あなたは謝罪すべきなんですよ’等と幼稚園児レベルの口喧嘩を繰り返す暇があったら、年金法改正案の問題点を洗いざらい提示し、その問題点について‘訴えかける’ことは可能であったと思う。
…そう、私が追求したいのはまさに‘訴えかける’という精神である。魂の込められた発言は、聴く側の心を強く惹き付ける力を持つ。決して‘訴える’のではない、‘訴えかける’ことが大切なのである。ちょっとした言葉にせよ何にせよ、こういった‘心の在り処’を失った瞬間、自分が日本人であることの意義をも失ってしまうのではないかと思う。何でも西洋化すればいいというものではない。相手に勝つことでしか自分の存在意義を感じられないようでは、最早死んだも同然である。大学における成績評価も、もう少し心の通ったものを期待したい。